J・エドガー

事件現場のおぞましい惨状を地元州警察が険しい顔をして眺めていると、コーションテープを躊躇なく超えてやってきた“やつら”は、きまってこう言って事件を奪っていく―――「我々はFBIだ。今をもって捜査権は我々が引き継ぐことになる」。映画の中でしかFBIを知らない僕たちにとって、彼らはそんな傲慢な輩だ。
近年、立て続けにヒット―――とりわけ後年にまで長く語りつづけられるであろうヒット―――を飛ばしているクリント・イーストウッドが今回メガホンをとったのは、そんなFBIの初代長官であるジョン・エドガー・フーバー(以下エドガー)の生涯を語る映画。エドガーをレオナルド・ディカプリオが演じている。
 
物語は、晩年のエドガーが部下に自伝を執筆させるために、自己の半生を語って聞かせるというスタイルで進行する。
 
映画の見所の一つはなんといっても、司法省職員であった主人公が初代長官に就任した20代から、晩年までを演じたレオ様(すでにこの呼び方は死語?)と、彼と晩年まで連れ添った部下のクレイドアーミー・ハマー)の特殊メイクだ。正直、今回のメイクにはド胆を抜かれた。老け顔の特殊メイクというのは今までもあったが、どこか作り物の域を出ていないというか、観客のこちらが「目をつぶってやった」というところがなきにしもあらずだった。しかしこの映画の特殊メイクは本当にリアルで、同行者は子役も含めエドガーを三人で演じていたと思っていたらしいが、そんな勘違いをしても無理はない。声が妙に若々しいが、そんなことが気にならなくなるほど見た目のインパクトが勝ってしまう。もちろんここでは特殊メイクだけでなく、役者の老人演技の方も評価するべきだが、これについては後述する。

今に引き継がれるFBIと彼の功績(例えば指紋捜査をはじめとする科学捜査の導入)と、共産主義をはじめとする国家の脅威に対する彼のワンマンな正義感が行き過ぎた暴走をしていく危うさがバランスよく描かれ、映画は単に彼を称えているだけでないことがわかる。前半の図書館のシーンや全国民を指紋などのIDで管理しようと彼が提案するところなど、プライバシーとセキュイリティの関係という今日的な問題ももりこまれていて、実はそれらが古くて新しい問題だったのだと気づかされる。
題材(FBIの初代長官の生涯!)のわりに全体的に地味な映画だが、地味でも惹きつけられるのはイーストウッドならではの重厚な語り口があってこそか。

 
ところで先にも書いた通り、この映画の見所の一つはエドガーとクレイドの「老け具合」だ。まぁこの二人はいろんな意味で「お友だち」であることがほのめかされるが(ウィキペディアによると、エドガーは同性愛者だったという噂もあるが、確証はないという)、どこに捜査に行くときも二個一で、一種のバディムービーを思わせる頼もしい二人の若人が、年をとるにつれ弱弱しくなってくると、今度は一転して「二個一」ならではのせつなさと愛くるしさを放つようになってくる。
 
この老エドガーと老クレイドの老人コンビのたたずまいを観ていて思い起こされるのは、ダウンタウンのごっつええ感じのコント「2014」だ。

老人になり、すっかり「あの人は今」的な存在になってしまったダウンタウンが、吉本本社に訪れかつてのマネージャーに仕事を無心しにいくという筋立てのコントだ。元マネージャーに「お前らはもう終わった芸人なんじゃい!」と怒鳴りつけられる彼らの悲哀と同時に、ともに歩んできた二個一の老人(特に同性)ならではの愛苦しさに満ち溢れている。この映画での「老人の二個一」ならではの感覚は、この「ダウンタウン」を観たときの感覚に酷似している。

コントといえば、往年の志村けん演ずるばあ様を彷彿とさせる晩年の老クレイドの震え具合もすばらしい。もう、常にプルプルしているのだが、もう少し激しいと本当にコントになってしまいそうだった。それをぎりぎり映画の域に押しとどめているあの絶妙な震え具合がいい。

またディカプリオの演技も素晴らしかったが、観ていてこの老エドガーが誰かに似ている気がした。その誰かが最初は出てこなくてうずうずしていたのだが、終盤になってその誰かがこの人だったことが気づいた。

断言しよう、今から約30年後のディカプリオは竜雷太になる!!!(今田祐介)


監督:クリント・イーストウッド/米/2012年1月28日より全国公開