スリー☆ポイント

山本政志/2011/渋谷ユーロスペース 5月14日〜レイトショー上映

私の映画を見ながら意識せずとも浮かんでくる先の展開に対する予測は、ことごとく裏切られてしまった。そもそも『スリー☆ポイント』のチラシに書いてあった「3つの場所、3つのスタイル、3つの世界が交差する」という文句から、オムニバス形式に3つのショートストーリーが連続して流れるのだろうという勝手な先入観を持っていた。もう、そのような態度で客席についた瞬間に、この裏切られる運命は決まったようなものだったのかもしれない、と今になって思う。

初めに流れるのは京都のラッパーと彼女のショートストーリーなのだが、この話は4,5分だろうか、何かが起こったようで起こる前に終わってしまう。そして、次に出る「恩納村」のテロップ。きっと後ほど京都の話には戻るだろうということを考えつつも、沖縄・恩納村で起こることに目を凝らす。(もちろんその予測は裏切られるのだが)
恩納村では、てっちゃんという元ホームレスの野性児みたいな人のインタビューが映し出される。そこには私たちが「恩納村」の文字から期待するようなリゾートビーチは存在しない。てっちゃん、髪も髭ももじゃもじゃで海パン1丁の恰幅のいいオジサン、が経営する飲食店とカニを獲るために訪れた道からそれた空き地しかない。ガイドブックに載っている「恩納村」でも、私がかつて訪れた「恩納村」でもない。しかし、テロップからどうやら恩納村なのだそうだ。
そしててっちゃんの話が終わると、また話は京都に戻るのだが、初めのラッパーは登場しない。彼らの話はあそこで幕が閉じられていたのだ。始まったのはほかの京都のラッパーの話。また次のラッパーについて何かわかりかけたところで、沖縄に戻るが、そこは「恩納村」ではなくなり、てっちゃんもいない。京都に戻ってくるたびに違うラッパーの話が幕を開け、沖縄も次が読めない。こうして私のいつもは通用していたはずの予測はことごとく裏切られていくのだ。

京都という場所とラッパーという肩書と彼らの閉塞感によって、一応線でつながれた京都のフィクションと、監督の興味のまま即興的に撮られたものをつないだだけの作りこまれていない沖縄のドキュメンタリー。この2つが交互に映されるのを、裏切られすぎた私は何かを予測するのをやめて、ただ見ていた。そして、予測の代わりに問いが私の頭の中を占めていく。「山本政志監督はなぜこのような映画を作ったのだろうか」「彼は何がしたいのだろうか」。その問いは不思議と裏切られたことに対する怒りや責めの気持ちを伴うことはなく、冷静のさなかで点滅しているだけのただの疑問だ。

最後にやっと3つ目の場所であり、3つ目のスタイルであり、3つ目の世界である東京編が始まる。これはショートではなく、中編だ。知らない役者や村の通行人ではなく、村上淳蒼井そらといった知った顔も出てくる。それまでかろうじて線でつながれた京都のラッパーものと沖縄の即席ドキュメンタリーで、この監督は映画が撮れないんじゃないかという邪念を見抜いて、その邪念を馬鹿にしたように、実に映画らしい映画である。AV女優としても有名な蒼井そらがどんどん自分でない女、村上淳の死んだ妻になっていくという映画なのだが、村上淳にしゃべり方を徹底して聞き出し練習するところから始まる。なんども何通りもの言い方を試し、合致するものを探していく。そして、服装や趣味も含めてどんどん死んだ妻になっていく。そのうちオンとオフの境目もあいまいになって、死んだ妻の娘がいないことにヒステリーを起こし――そして村上淳までもが蒼井そらを死んだ妻だと認めた瞬間に、AVの撮影でカットの声がかかったかのごとく、蒼井そらは唐突にそれまでのOLに戻る。つまり、すべて演技だったのだ。そして、この東京編が終わった瞬間、蒼井そらは役と同じようにOLではなくなり、蒼井そらになるのだろう。その切り替えの激しさに驚愕するとともに、映画女優のすごさを見せつけられる。それまで、なんなんだこの映画と思っていただけに藪からへびだ。いや、それまで2つのスタイルによって集中することを拒まれ、ゆさぶられていたにもかかわらず、最後のスタイルにきて急に引きつけて見入ってしまったことだって、藪からへびだ。

予測がつかない。まさに監督の手のひらで転がされている状態で、こちらが多少期待でもしようもんなら、ことごとくそれを裏切ってくる。しかも、最後の最後にいい映画だって撮れるんだよ、とドヤ顔をされる。
だからなのか、クレジットが流れる最中も、渋谷の雑踏を歩きながらも、帰りの電車の中でも、見て数日が経とうとしている今も、この問いが私から離れない。映画にぴったりと付着した形で、私の頭の中に浮かんでは消え、消えては浮かんでくる。
 この『スリー☆ポイント』をどう評価していいのか私はわからない。(M.K♀)