東京公園

青山真治/2011/新宿バルト9、横浜ブルグ13、他全国ロードショー


 先日、「たけしのアートビート」でアラーキーこと写真家・荒木経惟に向かって北野武が、アラーキー小津安二郎はにていると言い放った。アラーキーも恐縮するようなこの発言だが、北野武いわく、被写体に対しての上からでも下からでもなく、適切な高さをあわせてきちんと向き合っているかんじが共通しているのだそうだ。そのようなことならば、私はその中に『東京公園』の青山真治もいれたい。カメラが被写体を突き放すことはなく、常に映画の中の誰かの視線に寄り添ったまなざしをしている。そんなことを思ったのは偶然ではなく、たぶん小西真奈美の家にあったであろう家族写真、何を見つめているわけではないのに全員が同じ方向を向いているその写真を見て小津安二郎が浮かんできたからだろう。
 
 そうやって誰かの視線に寄り添い続けたからだろうか、それとも主人公である三浦春馬が写真家の卵だからだろうか、『東京公園』という映画を観賞する行為は「見る」というより「見つめる」にかぎりなく近いものになっている。
 小西真奈美三浦春馬を初めて見たときも、一瞬のできごとかもしれないが、それは「見る」というよりかは「見つめて」いた。そうでなければ、サッカーに夢中な少年たちが歩道橋の上から注がれているその視線に気づくはずもない。彼女は歩きながら脇目でみたのでなく、足を止め、身体の向きを変えて、ほんの数秒館ではあるが、自分の弟になるであろう少年を子供たちの中から探し出し、「見つめた」のだ。だから三浦春馬もそのとき彼女を「見つめる」ことができた。
 
なぜわざわざ「見る」という言葉を使わないのかというと、「見る」というと見る主体と見られる対象の間に主体と客体という冷たい距離のみがそこに横たわっている感じがするので、愛情でも興味でもそこに何か悪でない感情を持って見るときは「見る」ではあまりにも冷たすぎる気がしてならないのだ。だからその距離以上の何かが存在している気のする「見つめる」を使いたくなる。そして、役者同士が「見つめて」いる映画はいくらでもあるのだが、観客であるこちらが同じようにスクリーンに映った人間を「見つめる」ことが映画にはなかなかな出会えない。
 
 三浦春馬の家に30Lはあるだろうリュックをかつぎ、トランクを引きながらケジメをつけるために乗り込む榮倉奈々。そして、染谷将太が死んだ悲しみから逃避するために見続けていたゾンビ映画のDVDをばらまきながら床に突っ伏す。それまで強姦されそうになっても撃退してしまい、何でも知った顔で強気だった彼女だが、突っ伏したことであらわになった、その男の子みたいなショートカットからのぞくうなじは、やっぱり女の子の首筋で、そのあまりの唐突さにそのうなじを三浦春馬と一緒にただただ「見つめて」しまう。そのうなじに何を感じたのかはどうでもいい。が、その白いうなじに何も感じなかったとすれば、それは『東京公園』を見ていなかったも同じことだ。(M.K♀)