スーパー戦隊と〈都市〉への欲望

柄谷行人はかつて、村上春樹の小説のようなサブカルチャー文学やジブリ作品をはじめとする日本のアニメーションが世界に届くのは「構造しかないからだ」と短く言い捨てた。世界中で日本独特の文化や「クールジャパン」が評価されているわけでもなんでもなく、単にそれらの作品には物語論的な構造しかないから、簡単に世界のどこへでも届いてしまうだけのことだというのだ。

さて、今回とりあげる作品は『ゴーカイジャー ゴセイジャー 戦隊199ヒーロー 大决戦』だ。ゴレンジャーからはじまる「スーパー戦隊シリーズ」は現在放送中の『海賊戦隊ゴーカイジャー』で35作目。節目の作品ということで、ゴーカイジャーは34戦隊すべてに変身できる。なんとも反則というか、大げさにすぎる気もするが、毎週の変身大盤振る舞いはやはり観ていて気持ちがいい。

劇場版でも大盤振る舞いぶりは遺憾なく発揮されている。冒頭から34戦隊が揃い踏み、採石場で194人全員が大立ち回りを演じるシーンは圧巻だ。中盤はゴーカイジャーとその前作ゴセイジャーのメンバーとの「ヒーローへ変身する力」をめぐる戦いが、後半は34戦隊に倒された悪役たちの恨みの集合体、黒十字総統が立ちはだかる。
しかしこの映画、大盤振る舞いすぎて後半のインフレについていけなくなる。「スーパー戦隊シリーズ」には物語進行に〈お約束〉があり、ドラマパート→怪人を倒すため変身→肉弾戦→必殺技で怪人をいちど倒す→怪人が巨大化→巨大ロボで倒す、という流れが外せない。その進行に合わせて山ほどアイテムを登場させ、幼児(大きいお友達含む)にアピールするわけなのだが、なにせひとつの映画に35戦隊すべての格闘シーン、決め技シーン、巨大ロボが山盛りになっているわけで、食傷気味になるのもいたしかたない。画面に盛り込まれる要素が過剰になりすぎ、すっかり物語が追いやられてしまっている。プロットの妙なんてものはどこ吹く風、そこには暴力シーンの強度しか残っていないそのさまは、「構造しかない」を通り越し、ある種の「欲望しかない」とでも言ったほうがいいのではないだろうか。

ところがどっこい、欲望がムキ出しだからこそ観ていて面白いのである。その欲望をもっとも体現しているのは、劇場版のラスボスとして立ちはだかる黒十字総統だ。

かれはまず歴代の戦隊たちをあやつりゴーカイジャーたちと戦わせ、「正義の味方どうしが闘う姿をみたい」という欲望を叶えてくれる。そして巨大化し、「巨大化して巨大な建築群と並び立ちたい、巨大なものと自らを重ね合わせ、畏怖されるほどの存在感をもちたい」「街を破壊(巨大なものは自分だけに)したい」という欲望を叶えたと思いきや、さらに巨大化し、なんと自らが巨大要塞と化してしまう。巨大要塞はいってしまえばひとつの都市だ。つまり都市と同一化することですっかり全てをコントロールしたい、という願望のあらわれといえるだろう。

それだけではない。欲望が映像イメージに起こされることで、「欲望は際限なく巨大化する」ことと「巨大化したい欲望」とがぐるぐるとサイクルし、互いに強化しあうようになる。このサイクルは、最後に要塞と化した黒十字総統が巨大ロボ・ゴーカイオーに真っ二つにされることで、「(正義の名で)街を破壊したい」欲望を叶えることで、欲望の無限ループを完成させる。

権力者の特権のひとつに「都市をつくる、改造する」というものがある。日本ではかの渋沢栄一が、兜町や丸の内といった東京の街区を改造することになみなみならぬ情熱をかたむけ、日本初の建築家、辰野金吾パトロンにもなったことが知られている。ほかにも都市をつくることに執着した権力者は枚挙にいとまがない。今回の映画は、権力とその欲望の行き着く先を見事にあらわしている。

8月にもゴーカイジャーの映画が公開されるが、今度は仮面ライダーオーズとの共演だ。この仮面ライダーオーズ、テーマがずばり、ひとの欲望なんである。どちらの映画もご覧いただきたい。(大井 央)


巨大建築という欲望―権力者と建築家の20世紀

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S M L XL: Second Edition

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