ワシントン・ナショナルギャラリー展 

うかうかしているうちに終了間近になってしまった新国立美術館の「ワシントン・ナショナルギャラリー展」に足を運び気づいたことがある。ロートレックはフランス版の写楽かもしれない。

というのも、ふたりは共通の言葉によって評価されることが多い。「戯画的で的確なデッサン」「平面的な色彩表現」「大胆な構図」…。インターネットというのはこういう時に便利だ。写楽の代表作である大首絵『三代大谷鬼次の江戸兵衛』とロートレックの代表作である『アンバサドールのアリスティード・ブリュラン』の画像を検索して並べてみる。

なるほど、背景はあくまで背景として抑えられ、写実的とは言いがたいアンバランスな人物画が絵を占拠している。アンバランスなのだが、それは彼らのデッサンが下手からというわけではもちろんなく、特徴を捉えて描く似顔絵にはよくあるあの愛嬌のあるアンバランス感だ。どんなに不細工で醜くても愛らしくなってしまう加工が施されている。

もちろん、彼らの類似に気づいたのは私が初めてではない。「ロートレック写楽」と検索しても79400件ものヒット数がある。容易な発想だ。ふたりともポスター絵の製作者であり、ロートレックが活躍していた19世紀後半は日本の浮世絵が人気を博し、ジャポニズムの影響が大きかった時代である。彼と同じ画塾に通ったこともあるファン・ゴッホの浮世絵への傾倒は小学校の美術の教科書にも載っているとおり有名なものである。ちなみに今回の「ワシントン・ナショナルギャラリー展」のベルト・モリゾ『姉妹』(1969)にも室内装飾として浮世絵が飾られ、姉妹は扇子を持っていた。

そういえば、この夏に三菱一号館美術館で開かれていた「もてなす悦び展―ジャポニズムのうつわで愉しむお茶会」も大変おもしろい企画展であった。19世紀後半のパリ、ロンドン、ニューヨークでは万国博覧会をきっかけに日本に対する関心が急速に高まり、芸術全体でジャポニズムの旋風が巻き起こる。陶器や銀器、ガラス作品なども例に漏れず、様々なかたちでジャポニズムの影響を受ける。古伊万里焼きの陶器の模様を真似したもの、浮世絵がそのまま描かれたもの、そして浮世絵に描かれる定番のモチーフをあしらったもの。なかでもひときわ美しくジャポニズムを昇華していたのは始めに足を踏み入れる「あさがおの間」ではないだろうか。朝顔をモチーフとしたティファニーのガラスの美しさにくぎ付けにならずにはいられないだろう。これこそ至高のジャポニズム。舌足らずな言葉で形容するのがもったいがない。このガラス器を手に入れるためになら私財を投げやりたくなる気持ちも理解できる。

閑話休題
ロートレックはポスター画家として有名だが、写楽はどちらかと言えば浮世絵師と称されポスター画家というとあまりピンとこないかもしれない。しかし、写楽の描く大首絵たちは当時の歌舞伎のポスター、もしくはブロマイドとして江戸の人々に親しまれていた。そのことを思い出させてくれたのは初夏に東京国立博物館平成館で催されていた「写楽」展である。この特別展は平成館のつくりを巧みに利用した2部構成だ。確か右側の展示スペースでは10か月という写楽の短い画家生活を4期にわけつつ、保存状態による変色比較、異版、同芝居の同役者の絵を画家別比較といった、いかにも日本の美術展といったキュレーションになっている。
だが、左側スペースは右側スペースと展示されている絵はほぼ重複しているが、代わりにキュレーションの趣向が一転する。研究で明らかになってきた歌舞伎の演目内容を基につくられた写楽の浮世絵を使った作品予告映像が流れ、作品キャプションが掲示されている。よって、私たちは江戸の町人さながら写楽の絵をみて歌舞伎の演目を思い浮かべる。のっぺりした平面の印象を受ける浮世絵だが、急に躍動感やら臨場感がわいてくる。失敗したのは音声解説を借りなかったことだ。これで今落語界を引っ張る若手の春風亭昇太の音声なんか付きようものなら、写楽が活動した1794年に生まれていなかったことを悔やんだことだろう。日本で初めて音声解説の500円は惜しむべからずと感じた瞬間だ。

というわけで、私のロートレックはフランス版写楽という発見は大した発見ではないことがわかったのだが、それはそれで構わない。だが、ロートレック写楽を見るたびにこの「ワシントン・ナショナルギャラリー展」のことを思い出すだろう。それだけで足を運んだ価値があるというもの。そういえば、10月13日から三菱一号館美術館で「トゥールーズロートレック展」がある。ぜひ足を運んで、私の発見の真偽をご自分の目で確かめてはいかがだろうか。(増田景子)

写楽 (別冊太陽 日本のこころ 183)

写楽 (別冊太陽 日本のこころ 183)

ロートレック

ロートレックとは編集

ジャポニズムとは編集