読むものを切り刻む言葉の凶器――大里俊晴『ガセネタの荒野』

 砕けたガラス片ののように、ことばたちが突き刺さってくる。ぎざぎざにとんがった、ことばの凶器たちにすっかりやられ、正直もうレビューする元気もない。しかし、なんとか言葉にしよう。
 本書はタイトルと同名のバンド、「ガセネタの荒野」の活動の記録だ。と同時にバンドのベース弾きであった著者の自伝でもある。ついでにいえば本書は、2009年に著者が亡くなったことを受け、再刊された。かれは我々が通う大学で教鞭をとっていた。筆者は受けたことはないが、筆者の友人や、このブログを担当している仲間にも、著者の授業や指導を受けたものがいる。
 本書が語るのは、音楽とことばに圧倒的なナイーブさでもって挑み、そのナイーブさによって敗北した感性の塊たちの闘いの物語だ。筆者は、これは小説ではないと何度もいうが、つまりそれは、本書を小説のつもりで書いたと宣言しているようなものだ。事実、本書は青春小説としても読める。著者はいう。

自分が一個の肉体を持つこと。ギターを弾くのは一個の肉体でしかないということ。 (……) こいつをお払い箱にして、ただ冷たくて透明な光のようなものになってしまうことができたなら……。浜野はそう願っていた。そして、音楽だけが、その不可能な夢を、それでも一瞬夢見ることを許してくれたのだ。あらゆる表現行為の中で、音楽が最も速く、最も遠くまで僕らを連れて行ってくれる。

自由などというのは、ありえないと思った。解放などというのは嘘だと思った。僕らは自分を強いて行くことしか考えなかった。あらゆるスピードとあらゆる強度をもって、音楽を一点に追い詰めること。そう、加速するためには方向づけが必要だ。浜野は、その加速する行為をハード、そしてその為の枠をロックという名で呼んでいたのだ。

当時僕らは、殆ど総てのものを憎んでいたが、特に言葉を憎んでいた。だが、同時にまた、僕らほど言葉を敬っていたものもいまい。信じてはもらえないかもしれないが、それは殆ど言魂信仰だった。だから、僕らは殆ど一言も発することができなかった。いや、そうではない。それどころか、僕らはのべつまくなしに喋っていた。だが、それは、ある決定的な一つの言葉、永遠に到達不可能なことが予め決定づけられた言葉、一つの不在の言葉をとりまく、騒々しい沈黙だったのだ。

 音楽だけを、空気の振動という物理現象だけを信じた彼らは、肉体を捨てることを夢みた。ヘーゲルは芸術のなかでも、不完全ではあっても、音楽がもっとも高次で、物体から離れた純粋なものだとした。しかし楽器を演奏するためには、肉体をコントロールする技術を徹底的に身につけなければならない。それこそ、徹底的に物質的な行為を通してしか、音楽は生まれない。この両義性に、かれらは引き裂かれたのか。たとえばMIDI音楽やDTMのようなものを、かれらはけっして認めないだろう。音楽は「ひと」から発せられなければならない。しかし、肉体を通しては、その速度は圧倒的に遅くなる。届かない。「人間」が音楽に追いつかない。
 
 そして、彼らは言葉に憑かれた。文学にかぶれた。

僕らは、極にしか興味が無かった。中間なんかいらない。そして、極については言表不可能なのだから、僕らの、文学青年にして貧しい語彙、ゴミ、カス、タンツボ、等、必ずしも耳に心地好いとはいえない一連の名詞群だけでも、音楽を、いや、結局は総てのものを語るには充分過ぎる程だった。

 高度に発達した言語コンプレックスはボキャ貧と区別がつかない。

 研ぎ澄まされた感覚が、平易なことばというナイフに形を変え、読むものを切り刻む。著者はみずからを普通の人間だという。普通以下の、愚鈍な、愚昧なみずからを思い知らされては、読者たるわれわれは、ただ呆然と立ち尽くすほかない。
(ohisashi)

ガセネタの荒野

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