ぬぐ絵画―日本のヌード 1880-1945

考えてみれば、裸というのは不思議なものだ。どうせみんなたいしたものがついているわけではないし、似たり寄ったりなのにそれでも隠す。わいせつ物を陳列するってどうなのよ的な法律上の問題もあるが、第一にはやはり「裸は恥ずかしい」から隠すのだ。そして隠されるからこそ、裸には特別な「意味」が付与されていく。私たちは裸を見ながら、裸に付与された「意味」に魅せられている。

11月15日〜1月15日まで東京国立近代美術館で開催されている「ぬぐ絵画―日本のヌード 1880-1945」は、明治初期から昭和初期にかけ、西洋から輸入された「裸婦画」に挑んだ日本人作家らの作品を集めた展覧会だ。

だがそれは単なる技法の「輸入」ではなかった。当時の西洋と日本では裸の「文脈」がちがった。古代ギリシャの時代から、西洋では裸婦画を単なる猥褻なものとしてではなく、「美」の象徴として描く文化があった。それに対して日本では裸はおかしいもの、わいせつなものでしかなかったのだ。この展覧会は、黒田清輝ら日本の初期の洋画家らが、プロポーションの調整や構図の工夫などの様々な手法を試行錯誤しながら、日本のそうした「文脈」に挑んだ足跡を時系列にたどれるような仕組みになっている。

ただ、筆者は裸がただそこにあるだけで「エロい」とも、どうしても思えない。裸を「美しく」描くのと同じくらい、裸を「エロく」描くのにも技術が必要だと思うのだ。そういう点で、今回展示されている「美」を追求した裸婦画の中でひときわ異彩を放っていたのが、甲斐庄楠音の「裸婦」だ。

まず、フランス書院(知らない人はググってみよう!)のカバー絵も真っ青のはち切れんばかりのエロスが満ち満ちている肉体がよい。そして、この表情、適度に美しくないところが、美しいよりも逆に相乗効果となり、結果凶々しいほどのエロさを讃えることに成功している。筆者は不覚にもそこの場に立ち止まり、さらにその部屋を出る前にもう一度かけよって眺めてしまった。是非ともそれを直に見て、体感してほしい。(今田祐介)


展覧会情報ぬぐ絵画―日本のヌード 1880-1945
東京国立近代美術館「ぬぐ絵画」展特設サイト

ダイアモンドに隠されたもうひとつの「野球」について〜マネー・ボール〜

 2011年のプロ野球ソフトバンクホークスの日本一で幕を閉じたが、オフに思わぬ事態が待っていた。巨人の清武ゼネラルマネージャー(以下GM)が、人事権を侵害されたとして親会社である読売新聞の渡辺恒雄主筆を公然と批判したのだ。この件でメディアは大いに盛り上がったが、市井の人間、とくに巨人ファン以外の者の中には、どうも彼に肩入れしずらいという人も少なくないのではないか。というのも、清武氏自身もこれまで巨人というブランドの内部でぬくぬくとやってこれたのだから、今さらそんな正義感に打って出てもらっても、説得力がないのだ。

 それにGMの奮闘っぷりが絵になるのは、巨人のような潤沢な資金力で戦力をそろえることのできるチームではない。むしろ、毎年お金のやりくりに苦慮しながらなんとかリーグを戦う貧乏球団のそれではないか。ブラッド・ピットの『マネー・ボール』を見た後は、その想いを強くする。

 本作は、メジャーリーグ球団オークランド・アスレチックスGMビリー・ビーンをとりあげた同名タイトルのノンフィクションの映画化。2001年、プレーオフまで進出したアスレチックスはあと一歩のところでNYヤンキースに敗退する。しかし、本当の試練はオフシーズンに待っていた。チームの主力、ジェイソン・ジアンビーやジョニー・デーモンが、相次いで他球団に引き抜かれてしまうのだ。評者は瀬戸内海にある某魚類の球団のファンなのだが、シーズンを(たとえリーグ何位に終わったとしても)無事終了した後に訪れるこの絶望感には、涙が出るほど共感できる。

 来シーズンのための補強が急務の課題になり、ベテランスカウトチームは今まで通り「将来性のある選手」を集めようとするが、ビリー(ブラッド・ピット)はそれではだめなのだと感づいていた。ヤンキースと同じ野球をやっても、資金力で劣るアスレチックスは勝てないのだと。

 そんなビリーがひょんなきっかけでピーター(ジョナ・ヒル)と知り合う。イエール大学で経済を専攻していた彼は、先人たちとまったくちがったデータを基にした野球の「見方」をしていたのだ。ここから、激情家でハンサムなビリーと理論家で小太りなピーターという凸凹コンビのチーム再建が始まる。彼らは「パソコンでチームは作れない」と今まで通りの方法に固執するスカウト陣、監督らとも対立する。次第にあきらかになっていくのは、自身元メジャーリーガーのビリーにとってこの戦いが、根拠のない「目利き」によって若者を球界へと迷い込ませていく旧来のスカウティングシステムへの「復讐」でもあったということ。

 映画としての完成度には、疑問が残る。スポーツ映画というのはこれまでも何作か観てきたが、一番のネックになるのはやはりズブの素人の俳優の「演技」をいかにプロの「プレー」っぽくみせるか、誤魔化すかだ。正直なところこの作品はそれに成功したとは言えない。それに目をつぶるとしても、劇中のビリーの不自然な行動への疑問は、観終わった後に原作についてネットで情報を得るうちに氷解したが、それを劇中の論理で完全に消化しきれてはいない。さらに、事実を基にした映画特有の難しさがあったと思う。勝った試合を負けた試合にはできないし、その逆もしかり。だから、クライマックスにかけての盛り上がりに欠けるところは、いなめない。

 だがそれでも、ピーターが駆使する「セイバーメトリクス」という分析手法、打率や防御率といったわかりやすい選手の指標からではなく、ゲームの中に隠されたまったく別の論理によって「勝利の方程式」を導くというそれの面白さは、この映画からいかんなく発散されていると思う。

 先に書いた通り、評者は瀬戸内の某魚類の球団のファンなのだが、スタート地点ではアスレチックスと似たような境遇にあると言える。しかし、肝心のやっている野球は旧態依然としたままだ。いつになったらプレーオフを躍動する赤いユニフォームが見れるのか、このオフも来シーズンへの期待に胸膨らませながら、黄金時代の動画を見て楽しむのだった。(今田祐介)

監督:ベネット・ミラー/米/2011年11月11日より全国公開

新たな映画作家との出会いに興奮 『べガス』

新しい映画監督との出会いほどワクワクすることはないし、その出会えたばかりの監督の最新作の公開が近日中に控えているなんていう状況は、2011年現在の映画状況からしてみれば希有な幸福で、興奮をよぶ興奮、その歓喜をさけばずにはいられないのである。ともかく、アミール・ナデリとの出会いは衝撃であった。
 恥ずかしながら私は『CUT』の監督名を見るまで、東京国際映画祭の常連で、今年の第12回東京フィルメックスの審査委員長を務めるアミール・ナデリという名を通り過ぎてきた。しかし、11月11日、12日の2日間限定で行われた「ビバ! ナデリ」で見た『べガス』と『サウンド・バリア』の上映後、いや1作目の『べガス』を見ている最中から、アミール・ナデリという名が私の中にごりごりと木の幹を彫りつけるかのごとく強烈に深く深く刻印されていったのだ。もう忘れることはできない。

 
 タイトルの『べガス』はスロットやチップの音が絶えず鳴り響き、過剰にきらびやかに装飾され、大金がうごめく眠らない街、あのラスベガスのことを指しているのだが、映画の冒頭からその「べガス」という語の持つイメージからことごとく突き放してくる。ちろちろと鳴る風鈴の音をバックに、黒い画面の左下隅に大きくもなく、小さくもなく、白い文字でクレジットタイトルが淡々と表示されていく。そして画面が切り替わり、次に映るのは荒涼とした赤土の土地を少年が自転車で土煙をあげて颯爽と横切っていく姿だ。遠くには昼間のラスベガスの高層ホテル街が見え、それらは確かにその土地はラスベガスであることを説明しているのだが、彼の走るそこはあまりにもかけ離れた風景なので、映画の書き割り背景か砂漠の蜃気楼のようにしか見えない。そして少年の自宅であろうか、荒野にフェンスで囲ってこしらえた敷地に建てられたコンテナハウスに屋根をのっけたような家の玄関先のステップに自転車を乗り捨てて中へと入っていく。この間、わずか数分、セリフやナレーションは一切ない、が、だいたいの少年が暮らしている「べガス」が説明されている。
 その後にこの一家をかき回すきっかけとなる人物の乗った車が出てくるのだが、その車は明らかに怪しくて、少年の家の正面玄関から10メートル弱離れた路肩もないところにぽつんと駐車して家をじっと眺めているし、さらに出てきた青年の言動がすべて胡散臭い。

 圧倒的な画面で語る力とそれで持たされた期待を裏切らないアミール・ナデリの『べガス』は、その後はひたすら家の庭を掘り返すだけの話なのだが、冒頭で持った映画自体への期待も裏切ることなく、それを上回る面白さなのだ。「すばらしい娯楽映画ですよね」と『べガス』上映後、トークイベントのゲストであった黒沢清監督は口を切ったのだが、妙に言い得たこの一言は、さすが黒沢清監督だと言いたくなるが、それはさておき、そうこれは近年そうそう出会えなくなってしまっている娯楽映画の名作なのだ。
 この『べガス』が次に日本でお目にかかれるのがいつなのかは分からないが、その代わりにアミール・ナデリ監督作品で、西島秀俊主演の日本で制作された『CUT』が公開を控えている。今から楽しみでしょうがない。(増田景子)


監督:アミール・ナデリ/アメリカ/2008
2011年11月11日、12日「ビバ! ナデリ」@オーディトリウム渋谷にて上映

ステキな金縛り

 『ステキな金縛り』を見て、三谷幸喜の腕が落ちていると感じてしまった。彼は現在の日本で唯一〈以前〉の映画を撮ることができることの監督なのに……。

 三流弁護士が起訴された男の無実を晴らすために落ち武者の霊に法廷で証言してもらうために奔走する話なのだが、毎度のごとくキャストがえらく豪華である。主要人物役には深津絵里西田敏行阿部寛などの豪華俳優陣を取りそろえ、戸田恵子篠原涼子生瀬勝久中井貴一などが脇を固める。彼らは三谷幸喜作品の常連俳優たちであり、彼らは三谷幸喜独自のスター・システムに組み込まれている。
 舞台出身とだけあってCGではなくセットにこだわる三谷監督。今回の法廷のセットも日本を代表する美術監督で、『THE有頂天ホテル』や『ザ・マジックアワー』も手掛けた種田陽平によるもので「どこかにありそうだけど誰も見たことのない微妙なさじ加減の法廷セット」となっている。
 
 興業的にも成功させてきてお金が回収できるものをつくると認定された三谷監督は、このような恵まれたスター・システムと撮影セットを使える環境で、つまり撮影所システムが崩壊する〈以前〉のような環境下で撮影することが許された希少な監督なのだ。

 しかし、その三谷監督の栄光も『THE有頂天ホテル』を頂点に緩やかに下降しているように見受けられる。映画監督として彼はずっと先の見えないテンポの速い華やかな群像劇コメディを撮り続けてきた。今回の『ステキな金縛り』はといえば、今回もコメディ路線で攻めているはずなのだがどこか陰りがあるのだ。
 三谷監督は映画監督としては群像劇コメディをかましながら、脚本として関わっている『12人の優しい日本人』や『笑の大学』はどちらかといえば特定の場所のみを使った少人数先鋭の密室コメディが主流である。今回の『ステキな金縛り』のメイン舞台は法廷である。つまり、お得意の群像劇コメディよりも、法廷という限られた場所をいかに使うかという密室コメディの方がこの映画の舞台にはおあつらえ向きだったのだ。(思えば、『12人の優しい日本人』も『笑の大学』も法関係の施設が舞台となっている。)しかし、彼はあえてそこで群像劇コメディをやることを決めた。

 それが結果、功を奏さなかっただけである。いや、面白いという意見も多く聞かれるので求めすぎなだけなのかもしれない。しかし、せっかく〈以前〉の映画を撮れる唯一の監督なのだがら、自分が以前書き換えた面白さをどんどん上書きしていってもらいたいのだ。(増田景子)


2011年10月29日ロードショー

だべりが止まらぬ『サウダーヂ』

いま巷の映画ファンで一番の話題作はまちがいなく空族の『サウダーヂ』だろう。あらかたの映画雑誌、新聞各社、テレビやラジオ番組で取り上げられ、多くの人がこの映画に関して発言を残している。そのせいもあってか、ミニシアターの不況が嘆かれているにもかかわらず、唯一の上映館であるユーロスペースには『サウダーヂ』を見ようと連日大勢の人が押しかけている。
でも、一体『サウダーヂ』のなにがすごいのか。自分たちで資金をあつめながら半年かけて製作されたことなのか、移民問題といったまだ浮き彫りになっていない社会的問題を扱ったことなのか……。いくつかの『サウダーヂ』評で見受けられる優等生の解答のような言葉はなんだか彼らの映画には似つかわしくなく、歯がゆい感じがしてしまう。何かが違うんだ。

いくつかのインタヴューで言及されていることなのだが、『サウダーヂ』では甲府で実際に起きている様々な問題が挙げられているが、そこに対して別に解答のようなものを提示しているわけではない。仕事がなくて帰国を迫られているブラジル人に救いの手が差し伸べられることもなければ、クスリに手を染めていく男たちに警鐘を鳴らすこともしない。それらは列挙されているだけで、互いに交わることもほとんどない。唯一、猛(田我流)がブラジル人にHIPHOP対決を申し込んだり、土方のおっさんたちと飲みに行ったりしているが、どれも肩すかしにあって空回りしている。
そう、この映画、なにも起こっていない。なにか起こるであろう因子が衝突を起こすことなく、それぞれ浮遊しているだけで終わっているのだ。

だからなのか、「だべっている」シーンがやたら多い。休憩時間に一服しながら、誰かの部屋に溜まりながら、店番中にエロ本をめくりながら、ご飯の準備をしながら……。仲間内で手すきになった時にするとりとめのない、数分後には話しの詳細を忘れてしまうような他愛もないやつだ。もちろんそこには目的のようなものもなければ、落ちもない。あえていうなら時間を潰すことが目的だろう。それを対話や会話というと少し仰々しすぎるので、あえて田舎の不良っぽく「だべり」と言ってみる。
わたしたち観客は147分という一般的には長めの上映時間中ずっと、そこに出てくる登場人物たちの様々なだべりをひたすら見ることになる。でも、おもしろくて見続けてしまう。そこに『サウダーヂ』のすごさがある。

それにしても、なぜ生産性のないだべりを見ているだけなのに面白いと思ってしまうのだろう。ひとつの理由は映画の中でだべりがだべりとして存在しているからだ。『サウダーヂ』のだべっている場面は、撮影監督・高野貴子の手で、誰に視点を定めることなくフラットに引きの画で撮られている。それをだらだらと映すことで、スクリーンのあちら側にもこちら側にも無為な時間が流れるのだ。もしここで切り返しをしようものならば、だべりも立派な対話になってしまうが、そんなことはしない。映り映えしない景色のもとで彼らはひたすらだべり続けているのだ。
なにか起こってもいいはずなのに、なにも起こらないし、発展することも広がることもない。ただ時間を持て余し、だらだらと非生産性的に潰される。その後ろには救いようのない景色が広がる。ふと、書きながらそのだべっている画こそ『サウダーヂ』という映画の縮図なのかもしれないと思った。(増田景子)

2011年10月22日よりユーロスペースにて公開

『モテキ』〜珠玉の「Twitter映画」〜

 一年前に空前のモテ期を体験した藤本幸世(森山未來)は、その絶好の機会をふいにしたまま、惨めなセカンド童貞の日々を送っていた。ナタリー編集部への再就職にこぎつけた彼に、Twitterをきっかけに交流をはじめたある「男友だち」とのオフ会をきっかけとして、再びあの季節が訪れようとしていた。。。

 講談社のイブニングにて連載されていた同名タイトルのマンガ、さらにテレビ東京でのドラマで人気を博した『モテキ』の映画化。ストーリーは原作の久保ミツロウが全く新しい続編的内容のストーリーを描きあげ(公式サイト参照のこと)、ドラマ版と同じ大根仁がメガホンをとっている。

 原作やドラマ版同様、細部にまで施される原作者らのサブカル愛にあふれた小粋な演出は、特にサブカル系を自負しているであろう藤本(「B'zはぜんぜん好きじゃない」らしい)と似た境遇にいる者にとってたまらないだろう。また、彼がストーリーの要所要所で聴く80〜90年代JPOPや00年代アイドルソングも必聴。しだいに、彼が次にiPod(らしきもの?)で何を選曲するかが楽しみになってきてしまう。多数盛り込まれたあっと驚くカメオ出演も見逃せない。

 しかし、だからといって本作が、「原作読んでないヤツやドラマ版を観てないトーシローはお断りだねぷぷぷ」という雰囲気をかもす閉鎖的な「サブカル糞野郎映画」かと言えばそうではない。本作で初めて「モテキ」を体験する人でも容易に楽しめるように作られている高品質のラブコメだ。

 童貞にありがちだが、自分を守るために装備した頑強なる自意識によって逆に雁字搦めになっている藤本に、長澤まさみ演じるサブカル系のみゆきや、麻生久美子演じるややメンヘラのはいったアラサーOLるみ子が接近してくる。しかし、藤本の苦悩は終わらない。彼は正真正銘にモテているのに、モテキなのに、なぜだ?

 それもそのはず、モテキという題材にて本作が描いているのは、ある非モテセカンド童貞に突如訪れたグローリーデイズ、などではない。むしろ逆で、何もせずともむこうからやってくる「モテ期」が来ようと、所詮ダメなやつは彼女を作れないしセックスにありつけないという、残酷なる宣告だ。

 そんなストーリーに今日的なツールであるTwitterが、絶妙な形で絡んでくる。約一年前、某局がドラマでTwitterをとりあげドえらいスベり方をしていたのを死んだ魚の目で眺めていた筆者であるが、本作はきわめてレベルの高い「Twitter映画」ともいえる。特にある二つの場面におけるTwitterの使い方がリアルすぎてえげつない。筆者は実体験がフラッシュバックし危うく「ぷにゃああああ」などと奇声を上げながら映画館を飛び出してしまいそうになった。実際は大人しくスクリーンを眺めていたが。

 クライマックスはちょっと強引で、とってつけたように感じる。また作中で一度「ボーイ・ミーツ・ガール的なもの」を嗤いながらも、結局はボーイ・ミーツ・ガールしちゃっていることは否めない。でも、「モテキ」の力であそこまで行けたんです。彼氏のいる人も彼女のいる人も、童貞も童貞じゃない人も、2時間満足できるはずのラブコメディーである。(今田祐介)

監督:大根仁/日本/2011年9月23日より全国公開

悩殺ハムレット 〜「女体シェイクスピアシリーズ」第1弾

やり尽くされているであろう、古典シェウクスピアの『ハムレット』をここまで引き寄せられるもめずらしい。「女体シェイクスピアシリーズ」の第1弾となる劇団・柿喰う客の最新作『悩殺ハムレット』は、女体の文字通り女性だけの現代版『ハムレット』である。

現代版というと、ハムレットを現代に置き換えた再話のようなものを連想されるかもしれない。しかし、この『悩殺ハムレット』の舞台も時代もそのまま。シェイクスピアの中でも最も長い戯曲のため、かいつまみはしてあるのだが、基本的には言葉遣いと衣装や美術、音楽のみが現代風に置き換えてあるだけである。それでも、「現代版」が強烈なインパクトをもつのは巧妙な置き換えによるためだろう。


 デンマーク王室はまるでホストクラブである。
そして、現デンマーク王のクローディアスは派手なスーツを着こなすホストクラブのキング。ガートルートもどこかのギャバ嬢。彼らは夜通しクラブ音楽をがんがんに鳴らして、酒をつぎつぎと空けて、踊り狂う。へこんでいるハムレットに対して「アゲてけよハムレット。お前がヘコでたら、みんなアガんねーだろ」と声をかける。

 彼らがかかさず行う上演のあとのアフタートークでなぜこのような現代版になったのかの質問に中屋敷氏はこう答える。「夜、宴会―と連想していったらこうなっただけです。ぼくは誤読の天才なんです。」しかし、これを誤読としていいのだろうか。たしかに、『ハムレット』に描かれた夜の饗宴や権力闘争やメラコンニックなハムレットの思想は、時代のフィルターを通せば、堅く重々しい時代遅れな諸産物にすぎないが、現代のフィルターにかえれば、毎日のように夜遊びをし、金や地位がすべてで、男と女がくっついたり離れたり。その傍らで時代を嘆く鬱気味な王子。まさしく、ケータイ小説もびっくりの現代の愛憎劇ではないか。500年以上はるか昔の『ハムレット』をやっているだけなのに、観客であるわたしたちは、もう平成の、いまの話にしか見えなくなってくる。
 
 さらに、演出する過程で中屋敷氏はさらなる発見をしたと語る。それはセリフの言い回しではなく、その言い方で、セリフはチャラくなるということだ。『ハムレット』の中の有名なセリフ”To be or not to be, that is the question”を今回「生きちゃう系? 死んじゃう系? ソレ問題じゃね?」としていたが、一般的な翻訳である「生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ。」という言い回しも、言い方でチャラくなると、実演付きで説明をしていた。

 ホストクラブでの『悩殺ハムレット』。「女体シェイクスピアシリーズ」第2弾は『絶頂マクベス』の予定とのこと。次はどう誤読してくるのか、楽しみでならない。(増田景子)