未来はどう創る?−『ハンズ・アップ!』

未来はどう創られるのだろう。
映画では未来をも映すが,実際はその未来はだれかの想像力によって創られた「未来らしき空間」でしかない。よってどんなに巧妙でも,どんなに稚拙でも「未来」はすべて創られた偽物なのである。だからこそ、いかなる「未来」を創ったのかということは気になるところである。

『ハンズ・アップ!』はサヴォア邸から始まる。サヴォア邸は「未来」だ。

青々とした芝生の上に浮いている真っ白なサヴォア邸を歩くひとりの老婦人は彼女のこどものころの話をぽつりぽつりと語りだす。「大統領の名前は忘れたけれど」それは2009年のお話。つまり,こちらからしてみればほんの2年前の話である。彼女がいるのはいったい何年なのだろう,2009年に小学校高学年だから2070年くらいだろうか,21世紀も折り返しをすぎた遠い未来にいるらしい。
21世紀後半の未来として使われたサヴォア邸はル・コルビュジェによって設計されて1931年に竣工されたもの。1931年の建物が1世紀半以上先の未来の表れとして使われているなんて!

そこでゴダールの『アルファヴィル』を思い出す。

アルファヴィル1984年に探偵のレミー・コーションが地球から9000キロ離れた星雲都市アルファヴィルに行く話で,未来が舞台の話ではないのだが,空想都市で、同じ偽物という点でここでは「未来」といえるだろう。その星雲都市アルファヴィルの街は撮影当時の1960年代中頃のパリである。室内もセットを組めばいいものを、どこかの近代建築を「未来」建物として使っている。

実は『ハンズ・アップ!』の監督ゴダールの監督助手を経験しておりつながりはあるのだが、それにしてもセットを組んだり、CG処理したり、いくらでも創る手段があるだろう「未来」をあえて既成の近代建築を使うというのは、予算の問題以上に近代建築が「未来」になりうる要素を持っているからかもしれない。その答えのヒントを抜粋してこの駄文をしめるとしよう。

空間の奥行きを出すことが映画建築の第一のチャレンジで、これは主にムーヴィーカメラの録画能力に限界があるからである。(中略)もっとも簡単なトリックは壁とか仕切り、あるいは大きな物を画面の前景に置くことである。これらの要素がフレームとして機能し、前景と後景との距離感が強くなる。同じく有効なのは偽りの遠近法を使うことで、これは遠くの物を前景に置く物より小さくつくり、見せかけの奥行きをつくるのである。このような視覚のいたずら以外に、セット・デザインをうまく扱えば、空間をあんじすうことができ、近代建築はとくにこの目的に適っていることがわかった。
(『映画に見る近代建築』D・アルブレヒト
(増田景子)


映画に見る近代建築―デザイニング・ドリームス (SD選書)

映画に見る近代建築―デザイニング・ドリームス (SD選書)

シルバー世代の性愛学

シルバー世代の性愛学 (ベスト新書)

シルバー世代の性愛学 (ベスト新書)

 団鬼六といえば、官能小説を普段読まない人でさえ名前だけは知っているというSM官能小説界の重鎮であるが、本書は国の作った区分でいう「後期高齢者」にさしかかった著者が、高齢者の性愛について著した新書にしてエッセイ集である。

 一般的には、おじいちゃんにもなってセックスにはげむのは、「恥ずかしいこと」であったり「みっともないこと」であったりするのだろう。しかし、そのようなくだらない「常識」を著者はあっさり乗り越える。男たるもの、おっきするかぎりは「男」であるし、ヤリたいと思うかぎりは「男」なのだ。人生「太く短く」か「細く長く」かという二択の議論があるが、別にどちらか一方を選ばなくたっていい。著者に言わせれば太く長く(そして硬く!)な人生を送ったって、それはそれでいいのである。

 ちなみにこれは、氏個人の単なる希望的観測でもないらしく、本書では老人ホームなどで出会った高齢者カップルのセックスライフも紹介されている。中には、ベランダから相手の部屋に侵入するという、お前ら高校生の寮生活かというエピソードも明かされる。高齢者だからといって侮ってはならないのだよ、そこのチェリーボーイ!

 こうした氏の考え方を貫いているのは快楽主義だ。ただそれは、若い男女がネットを介して簡単に結びつくような軽薄な部類のものではない――事実それらを氏は「情緒もなにもない」と否定している。氏が本書で指南するのは、濃厚でいて激烈な、年輪を重ねた者だけが味わえる高み。氏の快楽主義とはきっと、命を賭したからこそ人生そのものを豊かにできる、そんな情交の別名なのだ。

 周知の事実だが、本書が出版された約一年後の今年5月に、団鬼六食道がんで亡くなった。それを知っているだけに、巻末にて藤岡琢也石立鉄男といった盟友たちが先に逝ったことをさみしがりながらも、「こうなったらできるだけ生きよう」と宣言し、「死ぬまでにどんだけ本を書くことができるか」とこれからの展望を語っている箇所で、やりきれない気持ちになるのは僕だけだろうか。

 この文言だけを読めば氏はまだ志半ばだったのかもしれない。しかし、「描くはずだった放物線」を後世に惜しまれながら見上げられるくらいの方が、カッコいい男の死にざまなのかもしれない。そう考えさせられる一冊だった。(今田祐介)

Amazon自筆レビューを加筆修正して掲載

ワシントン・ナショナルギャラリー展 

うかうかしているうちに終了間近になってしまった新国立美術館の「ワシントン・ナショナルギャラリー展」に足を運び気づいたことがある。ロートレックはフランス版の写楽かもしれない。

というのも、ふたりは共通の言葉によって評価されることが多い。「戯画的で的確なデッサン」「平面的な色彩表現」「大胆な構図」…。インターネットというのはこういう時に便利だ。写楽の代表作である大首絵『三代大谷鬼次の江戸兵衛』とロートレックの代表作である『アンバサドールのアリスティード・ブリュラン』の画像を検索して並べてみる。

なるほど、背景はあくまで背景として抑えられ、写実的とは言いがたいアンバランスな人物画が絵を占拠している。アンバランスなのだが、それは彼らのデッサンが下手からというわけではもちろんなく、特徴を捉えて描く似顔絵にはよくあるあの愛嬌のあるアンバランス感だ。どんなに不細工で醜くても愛らしくなってしまう加工が施されている。

もちろん、彼らの類似に気づいたのは私が初めてではない。「ロートレック写楽」と検索しても79400件ものヒット数がある。容易な発想だ。ふたりともポスター絵の製作者であり、ロートレックが活躍していた19世紀後半は日本の浮世絵が人気を博し、ジャポニズムの影響が大きかった時代である。彼と同じ画塾に通ったこともあるファン・ゴッホの浮世絵への傾倒は小学校の美術の教科書にも載っているとおり有名なものである。ちなみに今回の「ワシントン・ナショナルギャラリー展」のベルト・モリゾ『姉妹』(1969)にも室内装飾として浮世絵が飾られ、姉妹は扇子を持っていた。

そういえば、この夏に三菱一号館美術館で開かれていた「もてなす悦び展―ジャポニズムのうつわで愉しむお茶会」も大変おもしろい企画展であった。19世紀後半のパリ、ロンドン、ニューヨークでは万国博覧会をきっかけに日本に対する関心が急速に高まり、芸術全体でジャポニズムの旋風が巻き起こる。陶器や銀器、ガラス作品なども例に漏れず、様々なかたちでジャポニズムの影響を受ける。古伊万里焼きの陶器の模様を真似したもの、浮世絵がそのまま描かれたもの、そして浮世絵に描かれる定番のモチーフをあしらったもの。なかでもひときわ美しくジャポニズムを昇華していたのは始めに足を踏み入れる「あさがおの間」ではないだろうか。朝顔をモチーフとしたティファニーのガラスの美しさにくぎ付けにならずにはいられないだろう。これこそ至高のジャポニズム。舌足らずな言葉で形容するのがもったいがない。このガラス器を手に入れるためになら私財を投げやりたくなる気持ちも理解できる。

閑話休題
ロートレックはポスター画家として有名だが、写楽はどちらかと言えば浮世絵師と称されポスター画家というとあまりピンとこないかもしれない。しかし、写楽の描く大首絵たちは当時の歌舞伎のポスター、もしくはブロマイドとして江戸の人々に親しまれていた。そのことを思い出させてくれたのは初夏に東京国立博物館平成館で催されていた「写楽」展である。この特別展は平成館のつくりを巧みに利用した2部構成だ。確か右側の展示スペースでは10か月という写楽の短い画家生活を4期にわけつつ、保存状態による変色比較、異版、同芝居の同役者の絵を画家別比較といった、いかにも日本の美術展といったキュレーションになっている。
だが、左側スペースは右側スペースと展示されている絵はほぼ重複しているが、代わりにキュレーションの趣向が一転する。研究で明らかになってきた歌舞伎の演目内容を基につくられた写楽の浮世絵を使った作品予告映像が流れ、作品キャプションが掲示されている。よって、私たちは江戸の町人さながら写楽の絵をみて歌舞伎の演目を思い浮かべる。のっぺりした平面の印象を受ける浮世絵だが、急に躍動感やら臨場感がわいてくる。失敗したのは音声解説を借りなかったことだ。これで今落語界を引っ張る若手の春風亭昇太の音声なんか付きようものなら、写楽が活動した1794年に生まれていなかったことを悔やんだことだろう。日本で初めて音声解説の500円は惜しむべからずと感じた瞬間だ。

というわけで、私のロートレックはフランス版写楽という発見は大した発見ではないことがわかったのだが、それはそれで構わない。だが、ロートレック写楽を見るたびにこの「ワシントン・ナショナルギャラリー展」のことを思い出すだろう。それだけで足を運んだ価値があるというもの。そういえば、10月13日から三菱一号館美術館で「トゥールーズロートレック展」がある。ぜひ足を運んで、私の発見の真偽をご自分の目で確かめてはいかがだろうか。(増田景子)

写楽 (別冊太陽 日本のこころ 183)

写楽 (別冊太陽 日本のこころ 183)

ロートレック

ロートレックとは編集

ジャポニズムとは編集

あの子と部屋で観るためのジム・キャリーの三作

 つきあって間もない彼女、もしくはこれからお近づきになりたいと思っている女の子との仲を深めるために、部屋で一緒に映画を観るというのは有効な手段の一つだろう。しかし観る映画のチョイスは重要だ。まさか『ムカデ人間』をみせるわけにもいかない。

 そんな映画のチョイスにお困りな若人に、今回評者がお勧めしたいのはジム・キャリーの三作、『マスク』『ライアーライアー』『ふたりの男とひとりの女』だ。現代の喜劇俳優といえば、誰が思い浮かぶだろうか。ある人にとってはロビン・ウイリアムズ、ある人にとってはウディ・アレンなのかもしれない。笑いのツボは人それぞれだが、評者のツボにドンピシャにハマるのが、このジム・キャリーなのだ。

 ジム・キャリーのコメディの醍醐味といえば、あのケロっとしたチャーミングな顔から繰り出される顔芸であり、この三作でもそれがさく裂している。顔芸というと低レベルの笑いと思う向きもあるだろうが、こういうユルい笑いが女子に有効なときもあるんですよ奥さん!どれも比較的ポピュラーな作品だから、TSU×AYAにはきっと置いてあるだろう。もし置いてなかったら、地元のTSU×AYAを怨んでTO×LETでU×CHIして流さずに帰ってくればよい。

 笑えることもさることながら、「ちょっぴりエロ」が入っているところも見逃せない。ただ単に面白かったなら「あー、おかしかったねー」で終わってしまうところだが、ドン引きするほどではない「ちょっぴりエロ」なシーンがあることでドキドキ感が増すではないか。なんせ部屋にはあなたとその子、二人っきりなんだから。

 ちなみに、こうして三作あげてみるとある共通点が思い浮かぶ。どの作品においても一人の男が両立しえない二面性のはざまでもがき苦しみ、その様が映画の面白さの主成分にもなっているということだ。いわずと知れた『マスク』は冴えないバンカーがある不思議なマスクを手に入れたことで、普段の彼とは似ても似つかない超絶ハイテンションな超人に変身するというストーリーだ。さらに『ライアーライアー』はライアー(嘘つき)のロウアー(弁護士)が、離婚で離ればなれになった息子のかけた魔法で本音しか口にできなくなる話だし、『ふたりの男と〜』にいたっては戯画化されてはいるものの、まさに二重人格そのものの話だ。

 また、ジム・キャリーのコメディのいいところはなんだかんだ言って最後はハッピーエンドに終わるということ。特に『ライアーライアー』は、それまで嘘がつけなくなったことに苦しんでいた主人公が本音を口にする喜びにふれ、通行人に怪訝な顔をされながらも「I love my son!」と絶叫しながら大通りを走り去っていく姿は、ちょっとばかり感動してしまう。

 ただ、先に書いた通りどの作品も「ちょっぴりエロ」がまぶしてある。なので、一緒に観賞する女の子にそっち方面への耐性があるかも、予め見きわめておく必要があるだろう。あなたが今思い浮かべているあの子は、『ふたりの男と〜』にてジムが幼児と一緒にママの母乳を飲むシーンでドン引きしないだろうか?あるいは、『ライアーライアー』で上司とエッチしたあとに「どうだった?」と聞かれ「うーん、いまいち」と即答する彼に唖然としないだろうか?
 また、反対に「こんなコメディじゃ物足りないよ!」という女の子があらわれるかもしれない。そのときは迷うことなく『ムカデ人間』をチョイスしよう!(今田祐介)

読むものを切り刻む言葉の凶器――大里俊晴『ガセネタの荒野』

 砕けたガラス片ののように、ことばたちが突き刺さってくる。ぎざぎざにとんがった、ことばの凶器たちにすっかりやられ、正直もうレビューする元気もない。しかし、なんとか言葉にしよう。
 本書はタイトルと同名のバンド、「ガセネタの荒野」の活動の記録だ。と同時にバンドのベース弾きであった著者の自伝でもある。ついでにいえば本書は、2009年に著者が亡くなったことを受け、再刊された。かれは我々が通う大学で教鞭をとっていた。筆者は受けたことはないが、筆者の友人や、このブログを担当している仲間にも、著者の授業や指導を受けたものがいる。
 本書が語るのは、音楽とことばに圧倒的なナイーブさでもって挑み、そのナイーブさによって敗北した感性の塊たちの闘いの物語だ。筆者は、これは小説ではないと何度もいうが、つまりそれは、本書を小説のつもりで書いたと宣言しているようなものだ。事実、本書は青春小説としても読める。著者はいう。

自分が一個の肉体を持つこと。ギターを弾くのは一個の肉体でしかないということ。 (……) こいつをお払い箱にして、ただ冷たくて透明な光のようなものになってしまうことができたなら……。浜野はそう願っていた。そして、音楽だけが、その不可能な夢を、それでも一瞬夢見ることを許してくれたのだ。あらゆる表現行為の中で、音楽が最も速く、最も遠くまで僕らを連れて行ってくれる。

自由などというのは、ありえないと思った。解放などというのは嘘だと思った。僕らは自分を強いて行くことしか考えなかった。あらゆるスピードとあらゆる強度をもって、音楽を一点に追い詰めること。そう、加速するためには方向づけが必要だ。浜野は、その加速する行為をハード、そしてその為の枠をロックという名で呼んでいたのだ。

当時僕らは、殆ど総てのものを憎んでいたが、特に言葉を憎んでいた。だが、同時にまた、僕らほど言葉を敬っていたものもいまい。信じてはもらえないかもしれないが、それは殆ど言魂信仰だった。だから、僕らは殆ど一言も発することができなかった。いや、そうではない。それどころか、僕らはのべつまくなしに喋っていた。だが、それは、ある決定的な一つの言葉、永遠に到達不可能なことが予め決定づけられた言葉、一つの不在の言葉をとりまく、騒々しい沈黙だったのだ。

 音楽だけを、空気の振動という物理現象だけを信じた彼らは、肉体を捨てることを夢みた。ヘーゲルは芸術のなかでも、不完全ではあっても、音楽がもっとも高次で、物体から離れた純粋なものだとした。しかし楽器を演奏するためには、肉体をコントロールする技術を徹底的に身につけなければならない。それこそ、徹底的に物質的な行為を通してしか、音楽は生まれない。この両義性に、かれらは引き裂かれたのか。たとえばMIDI音楽やDTMのようなものを、かれらはけっして認めないだろう。音楽は「ひと」から発せられなければならない。しかし、肉体を通しては、その速度は圧倒的に遅くなる。届かない。「人間」が音楽に追いつかない。
 
 そして、彼らは言葉に憑かれた。文学にかぶれた。

僕らは、極にしか興味が無かった。中間なんかいらない。そして、極については言表不可能なのだから、僕らの、文学青年にして貧しい語彙、ゴミ、カス、タンツボ、等、必ずしも耳に心地好いとはいえない一連の名詞群だけでも、音楽を、いや、結局は総てのものを語るには充分過ぎる程だった。

 高度に発達した言語コンプレックスはボキャ貧と区別がつかない。

 研ぎ澄まされた感覚が、平易なことばというナイフに形を変え、読むものを切り刻む。著者はみずからを普通の人間だという。普通以下の、愚鈍な、愚昧なみずからを思い知らされては、読者たるわれわれは、ただ呆然と立ち尽くすほかない。
(ohisashi)

ガセネタの荒野

ガセネタの荒野

映画の日の二作〜『コクリコ坂から』と『SUPER8』

 先週の映画の日に二作連続で観てきたので、その二作をあえて対置してレビューを書いてみることにする。

 一作目は『コクリコ坂から』。いわずとしれたスタジオジブリ宮崎駿の息子、宮崎吾郎がメガホンをとった第二作だ。1963年の横浜を舞台に、ヒロイン松崎海と先輩風間俊の恋と、2人の通う高校の文化部部室の建物、通称「カルチェラタン」の取り壊しを阻止するべくたちあがった学生たちの奮闘が並行して描かれる。

 ひと言で言うと、「毒にも薬にもならない映画」である。この「毒にも薬にもならなさ」にどこか懐かしさを感じると思っていたら、その出所がわかった。みなさんは小学校の頃に、体育館でなかば強制的に鑑賞させられたアニメを覚えてないだろうか。道徳や反戦教育などの教材用に作られたアニメ映画のようなやつ。あれに色調が似ている。
 
 作中の大きな柱の一つになっているカルチェラタンであるが、取り壊されることが決まっているにもかかわらず、まったくもって「取り壊される気配」がない。取り壊されることになっているというのだが、そこには取り壊しを主導し、学生たちの危機感を煽るような「大人」が出てこない。歴史あるカルチェラタンをどうして壊したがるのか。その「悪意」を具現化するようなキャラクターが登場すればまだ話がわかる。だが、それになりそうなキャラクターはほとんど出てこない。だから、どうしても学生たちの奮闘は滑稽な独り相撲に映ってしまう。

 一方もう一つの軸、海と俊の間にも途中で「出生の秘密」など克服するべき問題が浮上するが、いかんせん地味すぎる。公開前から本作との比較でよく引き合いに出されていたのは故近藤喜文の『耳をすませば』だが、これではかの「究極のリア充青春映画」の牙城は崩せないだろう。「耳すま」のヒロイン・滴とその相手役の天沢聖司には、それぞれ将来の夢がある。その夢に希望を抱きながら時に不安で張り裂けそうになるその様が放つ目がくらむような輝きに、現実を這いずり回る虫けらでしかない我々観客は、ほのかな殺意を覚えつつも憧れてしまう。今作は殺意を覚えるにも憧れるのにも中途半端で、もちろんこれは原作ありきの話でしかたないことかもしれないが、もっと俺たちに血の涙を流させてくれよ。

 ちまたでは吾郎氏の前作『ゲド戦記』よりは好評価のようだ。筆者が二回挑戦して二回とも寝てしまった上質な催眠ムービー『ゲド戦記』であるが、本作はたしかに「ゲド」より「まし」である。だが下手に「まし」なぶん、「ゲド」以上に忘却の彼方にかすむ可能性が高い。あの作品はもう一度くらい観るかもしれないが(だって途中で寝ちゃったからね)、この作品はたぶん二度と観ないもん。終盤はかなり苦痛だったが90分で終わってもらって本当に助かった。
(『コクリコ坂から』監督:宮崎吾郎/2011/日 7月16日より全国公開)

 そのあと20分もしないうちに二作目、脚本・監督J.J.エイブラムス、製作スピルバーグの映画『SUPER8』を鑑賞。とあるアメリカの片田舎の舞台に、映画少年たちが撮影中に偶然巻き込まれてしまった不思議な体験や軍部の陰謀などが交錯するSF超大作だ。当ブログではすでに増田景子がとりあげている

 直前に観ただけに否が応にも『コクリコ坂から』と比べてしまうが、予め言っておけば映画として『SUPER8』の圧勝だ。
 開始数分で、映画の主人公が今抱えている問題や彼の置かれた環境が、きわめて簡潔でいてきわめて効果的に描かれる。もうこの時点で映画に引き込まれるのだが、そうした優れた演出で描かれた少年たちの日常に、とある“非日常”は唐突にしてほぼ垂直に突き刺さってくる。「ここまでやるかよ!?」と笑えてくるくらいのCG演出によるド派手なシーンは、やはりこの手の映画にはぜひとも必要な醍醐味の一つだ。

 もっとも、とりたてて斬新な試みがなされているわけじゃない。SF映画によくあるような、ありふれた要素(特に『E.T.』的な何か)のパッチワークと言えば、否定しようがない。
 しかし、ありふれた要素が映画という一つのまとまりになったとき、120分をほとんど中だるみすることなく走りきる爆発的なエネルギーが生まれる。『コクリコ坂から』には、「“これ”と“それ”と“あれ”の要素が入ってれば、とりあえず人って感動するんじゃね?」という打算が透けて見えるが、一方こちらは「ここでこうすれば観客にどのような効果が生まれる」ということを考えに考え抜いた痕跡がある。それはいいかげんな「打算」ではなく、綿密な「構築」と呼べるものだ。繊細な感情の機微を描いているはずの『コクリコ坂から』の方が、むしろおおざっぱに思えてきてしまう。結果として、二作の映画としての「偏差値」には、歴然とした差異が生まれる。
 他にも文句がないわけではない。クライマックス前の一瞬の「交流」のシーンもどこか偽善的だし、これだけの脅威にもかかわらずほとんど人が死なない(あるいは死んでも暴力描写は極力避けられている)ところに、時代に伏流する方向性(それもきわめて悪い種類のそれ)を感じなくもない。だがそれでも、『コクリコ坂から』より断然こちらを推したい。
(『SUPER8』監督:J.J.エイブラムス/2011/米 6月24日より全国公開)

 ここまで読めばわかると思うが、二作はまったく異なるジャンルの作品だ。だからこれは、『コクリコ坂から』より『SUPER8』の属するジャンルの方が僕に合っていたというだけのことかもしれない。
 だが、ものには限度というものがある。
 もし僕のように『コクリコ坂から』と『SUPER8』を連続で観賞し、前者の方がおもしろかったとほざく人間がいるとすれば。
 僕はその人と友達になれないかもしれない。(今田祐介)

ムカデ人間

 ドイツ郊外の森で行方不明事件が次々と発生する。犯人は、かつてシャム双生児の分離手術で名をはせたヨーゼフ・ハイター博士だった。博士がなぜそんな事件を起こすのか。それは彼の長年の夢に起因する。彼が本当にしたかったのは人間を分けることではなく、つなげること、すなわち「ムカデ人間」の創造だったのだ・・・。


 昨年アメリカで公開されカルト的な人気を獲得した「ムカデ人間」(原題『The Human Centipede』)が、今公開されている。ディーター・ラーザー演ずるいかにも神経質そうなハイター医師は、戯画化されたマッドサイエンティストだ。メアリー・シェリーのフランケンシュタイン博士が怪物を創造して以来約200年、創造主にとって代わりたいという彼ら狂った科学者のゆがんだ欲望は、ついにこのムカデ人間にたどり着いたというわけだ。邦題、そしてプロモーションでも散々紹介されているため、彼が何をしでかすのかというのは、劇場に足を運んだ多くの観客にはすでに察しがついていただろう。だがたとえわかっていたとしても、実際に映像化された“それ”を目の当たりにしたときの衝撃度は、ほとんど減じない。

 ムカデ人間とは一体何者なのか。事件の被害者でもありミュータントでもあり、カテゴライズが不可能だ。それは観る側も同様で、手術痕に痛々しさを感じる人もいるだろうし、生きたままみじめな姿に変えられた被害者たちにアブノーマルなエロスを感じる人もいるだろう。とにかく、ムカデ人間からは恐怖にとどまらない様々な感情が想起する。

 また、ホラー映画ということにはなっているが評者はそう簡単にジャンル分けできる映画でもないと感じた。手術シーンなど凄惨な描写もふんだんに盛り込まれているが、それはこの映画の枝葉にすぎず、この作り手が見せたかったのはあくまでムカデ人間とその「生態」なのだ。ムカデ人間への情熱は、ハイター医師の情熱であるとともに、監督自身の情熱でもある。

 「なんでやねん」という不自然な設定、展開もないわけではない。特に、本作で日本人ヤクザ役(なんでそんな奴がドイツの山奥で拉致監禁されてんだ)を演じきった北村昭博によるラスト前の長いセリフは、日本的な宗教観からすればかなり違和感があるだろう。だが、そんな不自然さを鑑みてもおつりがくるくらい、この映画はぶっとんでいる。それにしても、この映画に日本人が出ていたことはある意味誇るべきことだろう。

 人と人とがつながる(断じてロマンティックな意味ではない)とはこういうことなのかと、思わず感心してしまう。特に、この映画の一つの山場である強制ス×ト×のシーンは必見。場内ではどよめきが起こっていたが、評者も思わず声を上げて笑ってしまった。しかしそれにしても、なんでこんなことを思いついたのだろう。そしてなぜこれを映画にした?(今田祐介)

監督:トム・シックス/2010/英・蘭合作 7月2日より全国公開